『 お姫様の休息 』1/2 2月14日の朝。その日は朝から快晴だったのにとても寒くて、わたしは早くに目が覚めてしまいました。窓から明るい日の出の日差しが燦々と入り込んでいます。 わたしはだるさを吹き飛ばすため、光を浴びに起き上がって窓の近くに行きました。 寝たのは午前1時を回ってからですが、目が覚めたのは朝の6時。 ここ数日こんな生活が続いているのです。 そう。すべては今日、この日のために。バレンタインデーのチョコレートをあの人に渡すために。わたしはこの1週間寝る間も惜しんでチョコ作りの練習に励みました。料理をしたことのないわたしにとって、チョコ作りは予想外の難問でした。客観的に見る側になれば簡単そうに見えるのに、実際やるほうになると、分量、入れる順番、タイミングなど、慣れていないとなかなか難しいのです。 おかげですっかり寝不足になってしまいました。 しかし、寝ようと思っても、その日の練習で失敗したことが気になって、なかなか寝つけません。仕方がないのでベッドから起きて料理の本を読んだりするのですが、そうするとだんだん不安になってきて、時には調理室まで行ってもう1回・・・。こんなことの繰り返しでした。 「あ〜もう。なんでうまくいかないですか〜!!ちょっとムカついてきたで〜す。もうやめてやるで〜す!!わたしには向いてないので〜す」 そんな独りごとを言うときもありました。そのときは自分が出来ないことにいらいらして1回作るのをやめました。でも、やっぱりこの調理室に戻ってきてしまったのです。 それもこれもみんなあの人――中尉さんに食べてもらいたいから。喜んでもらいたいから。 私の心の中にはもうその事しかありませんでした。どうしてもわたしが自分の力だけで作ったものを中尉さんにあげたかったのです。 買うことも一瞬頭をよぎりましたが、なぜかわたしはその考えを却下しました。おいしくても誰の作ったものかわからないものよりも、下手でも気持ちのこもった物の方が中尉さんは喜んでくれるような気がしたのです。 ニッポンのオトコにこんな気持ちになるなんて・・・とわたしは苦笑しました。 私は少し前まで父親と同じニッポンのオトコが大嫌いでした。 ママを捨てた男・・・、ママを悲しませた男・・・。 許せない、と思いました。どんなに憎んでも憎みきれないくらい私は父親を憎んでいました。 そんなオトコと同じ人種のニッポンのオトコもみんな同じだと、卑怯で軟弱でズルイのだと、そう信じ込んで生きてきました。 でも、それは違いました。私の父親・・・いえ、パパはずっとママを、わたしたちのことを想って生きていた。そしてママも・・・。 ママにはわかっていたのです。パパがソレッタ家を出た理由を。それが、わたしとママの幸せのためだと思ってイタリアを去ったのだ、ということを。 でもパパのいない生活はつらくて、寂しくて・・・。それが自分のための選択だと思うと余計につらくて・・・。きっと、だからママは毎日泣いていたのでしょう。 今のわたしならそのときのママの気持ちもパパの気持ちもわかる気がします。 でも幼いわたしはそれを自分の中で勝手に憎しみに変えてしまったのです。 でも、それは違った。パパはわたしを身を挺して守ってくれた。わたしを愛していてくれたのです。 そして中尉さんも、命がけでわたしを火車の手から救い出してくれた。使い古された言葉ですが、まるで白馬に乗った王子様のように・・・。白く輝く光武に乗って。 あの時から、わたしはあの人に恋をしていたのです。 そこまで考えて、わたしはふと自分の机を見やりました。そこには綺麗にラッピングされたチョコレートが1つ。中尉さんはきっと笑顔で受け取ってくれるだろうと、そんな考えが浮かび、わたしは思わず顔がほころんでしまいました。手作りと知って驚く顔も、そのあとのちょっと照れた笑顔も、想像できてしまったから。 いつ渡すかは少し考えた結果、中尉さんが帰ってきてからすぐに渡そうと思いました。中尉さんは昨日から海軍省に呼ばれてこの帝劇を留守にしているのです。 いざ中尉さんに渡すことを考えると、わたしは自分の中が興奮と不安に満ちていく感覚を覚えました。早く渡して中尉さんの顔が見たいという気持ちと、そのときがまだ来なければいいと思う、なんとも形容しがたい不安と。こんな感覚は舞台に立つときでさえ感じたことはあまりありません。 ヨーロッパの舞台で『太陽の娘』と謳われたこのわたしが、中尉さんに手作りチョコを渡すくらいでこんなに動揺するなんて。 わたしはそんな自分がなんともおかしくておもわず小さな声で笑っていました。 「ふふふっ・・・ホントにいつの間にこんなにスキになっちゃってたですかね〜?」 そんな疑問の声も聞いている人は誰もいません。 <ホントに不思議な中尉さん> わたしは心の中でそう言い、支度をするためクローゼットの扉を開きました。 支度を済ませ、食堂に下りて行くとかえでさんとすみれさんとアイリスという、ちょっと珍しい組み合わせがちょうどこれから食後のお茶を飲もうとしていました。 「あら、織姫さん。今日はお早いんですのね」 すみれさんがティーカップに口をつけながらそう言いましたが、わたしはあえて気にしてないふりをして、 「今日は早く目が覚めたので〜す。すみれさんこそ〜?あくびばっかりしてどうしたですか〜?『トップスタァは日々の体調管理もカンペキでなくてはいけませんのよっ』ってこの前わたしに言ったのはどこのドイツ人でしたか〜?」 とすみれさんの声音を真似して言い返してやりました。すみれさんはあわてて口元を扇子で隠して、バツの悪そうな顔をしていました。アイリスもかえでさんも笑っていました。 <ふふ〜ん、今日のわたしに皮肉を言うなんて100万年早いので〜す> わたしは顔には出さないようにこっそり心の中で微笑みました。そしてそのまま席に着こうと椅子をひいたのですが、そのとき一瞬視界がかすんだのです。 わたしはすぐに目をこすりましたが、そのときはすでに元通りの視界になっていました。なのでわたしは気に留めませんでしたが、隣の席にいたかえでさんに気づかれたようで、 「織姫?どうしたの?」 と聞かれました。わたしは大して気にも留めなかったので、 「大丈夫で〜す。ちょっと目がかすんだだけで〜す」 と、笑顔で返しました。かえでさんは、そう・・・と言ってそれ以上何も聞きませんでした。 かえでさんはきっとわたしが夜中にチョコを作っていることを知っているのでしょう。でも、何も言わないでくれたかえでさんにわたしは少し感謝しました。 アイリスはお茶を黙って飲んでいましたが、かえでさんのほうに目をむけ、少し膨れた顔で、 「ねぇ〜、かえでお姉ちゃん。お兄ちゃんまだ帰ってこないのかな?アイリス早くお兄ちゃんにチョコ、渡したいな〜」 と言いました。かえでさんはアイリスに、夕方まで待ちましょう、と言っていました。中尉さんは夕方には帰ってくるらしいのです。 夕方・・・・。長いようで短い時間。朝食を食べ終わったわたしは、さて、夕方まで何をしようかと考えました。本はこの一週間で散々読んだし・・・。かといって部屋にもいたくありません。 やっぱりピアノを弾こうと思い、席を立とうとしたときでした。 そんなに思いきり立ったわけでもないのに、いきなり目の前の景色が揺らいで、まるで舞台のようにゆっくりと視界が暗転していきました。わたしはとっさに何かつかもうとしましたが、伸ばした手はむなしく空を切っただけでした。 「織姫!?」 「織姫さん!?」 と、みんなのわたしを呼ぶ声が遠くで聞こえましたが、それも暗い意識の底に沈んでいきました。 |