『 ボクの浴衣 』暑く忙しい日々が続く中のつかの間の休息。今日は帝劇の夏休み最後の日である。 夏の終わりの夕暮れ時。心持ち涼しくなったような気がする帝劇の玄関で、大神は皆が来るのを待っていた。 彼の格好は今、見慣れたモギリ姿ではなく紺色の浴衣を着ている。 いつものモギリ姿もとても似合っているのだが、やはり日本男児だけあって浴衣はまるで違和感がない。 「ちょっと早く来すぎたかな……」 誰も来ないロビーを見渡して独りごちる。いつもの賑やかなロビーと違って、今はセミの声が暑さに拍子をかけているだけだ。 今日は隅田で花火大会があるからみんなで見に行くことになっているのだ。 せっかくの休日も今年はどこにもいけなかったからせめて花火大会くらいはということで皆で浴衣を着て出かけることになった。 一応五時にロビーに集合ということになっていたのだが前もって仕事を終わらせておいた大神は他にすることもなくロビーで待ちぼうけすることになってしまった。 「あ、隊長。早いね」 「ああ、レニ──」 ぼうっとセミの声を聞いていた大神の耳に聞きなれた声が重なって大神が振り返ると、当然浴衣を着たレニが食堂の方からちょこちょこと歩いてくるのが見えた。 「……どうしたの、隊長?」 ズボンと違って浴衣は歩きにくいので必然的に歩くのが遅くなり大神のところに着くまでにいつもより余計に時間がかかってしまったが、側に来ても何も言わずに自分を見つめている大神にレニが訝しがる。 「え、あ……いや……」 レニに声を掛けられて大神ははっとした。 始めて二人で縁日に行った日以来、毎年レニの浴衣姿は見ているのだが未だに慣れない。 普段はよほどのことがない限りボーイッシュで動きやすさを重視した格好をしているレニの浴衣姿というのは、急に彼女がとても華奢で儚げに見えて鼓動が早くなってくる。 しかも今日はめったにつけない控えめなピンクの口紅を引いて、その上前に浅草で買ってあげた別項のかんざしまでつけている。 「その……レニ、きれいだよ。よく似合ってる」 つまりはそういう事なのだと自分を落ち着かせながら大神はレニに微笑む。 途端にレニの頬がポっと口紅と同じピンク色に染まった。 「あ、ありがとう……」 レニも未だにこういうことには慣れず、お礼を言いながら俯いてしまう。 そんなレニにますます鼓動を早くさせながら、大神はレニの浴衣を見た。 水色の生地に朝顔を咲かせたその浴衣はまるでレニのようにどことなく切なげで優しくて、彼女の白い肌にとてもよく合っていた。 「……隊長?」 「あ、ごめんごめんっ、本当によく似合ってると思ってね。自分で選んだのかい?」 じっと見つめられておずおずと顔を上げるレニに大神は慌てて思いついたことを尋ねた。 「これは……」 なにげない質問だったのにレニはさっきとは違う想いで頬を染めて、胸の前で何か大切なものを抱きしめているかのように手を握って、少しだけ言葉をためた。 「これは、ボクの……ボクのお母さんが、作ってくれたんだ……」 「え?」 小さい声だったけれどはっきりとそう言って嬉しそうにはにかんだレニに、大神は思わず目を見開いた。 レニとそういう話はした事がない。聞かなくても大体の事は分かったし、どれもあまりいいものではなかったので、レニが自分から話さない限りは聞かないでおこうと決めていた。 けれど今、目の前のレニは母親に作ってもらったという浴衣に嬉しそうに身を包んでいる。 「レニ……どういう……」 「あ、レニとお兄ちゃんだー。わぁ、レニ、そのゆかたすっごくかわいい!」 「あ、アイリス、ありがとう」 どういうことかおもわず聞こうと思った大神の声は階段から降りてきたアイリスの高い声にかき消された。 「本当、すごくよく似合ってるわね、レニ」 「ふふっ、やっぱりレニも女の子ですね〜。せっかくかわいいのにもっとおしゃれしないともったいないで〜す」 「えっ、あ、えっと……」 皆に誉められてレニは赤くなってなんと言えばいいのか迷っているようだった。 こうなってしまってはもう元の話に戻すのは無理だ。それにそんなレニを見ていたら、別に知らなくてもいいかという気持ちになってくる。 「おぅ、みんな元気でやってるか?」 「あ、米田さん。お久しぶりです」 玄関から声が掛けられて、一番近くにいた大神が真っ先に気づきあいさつをした。 「あは、米田のおじちゃんだーっ」 それで皆も米田に気づき、今度の話題は米田を中心になぜもっと帝劇にきてくれないのかということで盛り上がった。 「さあさあみんな、歩きながらでも話はできるわよ。早く行かないと間に合わないわよ」 そんな光景にかえでも笑いながら皆を促して玄関を出る。 「花火楽しみだね〜レニ!」 「うん、そうだね」 アイリスと手をつないで楽しそうに笑っているレニに、大神はさっきの言葉を心の中にしまって彼女の笑顔を微笑ましく見ていた。 「あ、はい」 夏の風を入れるために開け放した窓からセミの声と共に窓につるした風鈴の音がして、部屋で読書をしていたレニはドアをノックする音を一瞬聞き逃し慌てて返事をした。 「かえでさん。どうしたの?」 ドアを開けると廊下にはかえでがいつものちょっと謎めいた笑みを浮かべて立っていた。 「レニ、ちょっと来てもらえるかしら。どうしてもあなたに見てもらいたいものがあるの」 「いいよ」 特に断る理由もないのでレニはいったん部屋の中に戻って読みかけの本にしおりを挟んでから廊下に出てドアを閉めた。 「どこにいくの?」 「すぐに分かるわ」 レニの問いかけに、かえでは短く応えてにっこり笑った。こうなったらなにを聞いても答えてはくれない。それにどうせすぐに分かるだろうと促されるままについて行くと、かえでは衣装部屋の前で足を止めた。 「さ、入って」 言われた通りに衣装部屋に入る。 ついこの間までやっていた夏公演の衣装や小道具が、まだちらちらと目に付いた。 「あれ?これは…」 そんな中で一着の見慣れない服を、レニは見つけた。 きらびやかで派手な舞台衣装と違って落ち着いているそれは全くの普段着だ。しかも日本人が好んでよく着ている浴衣だった。 涼しげな水色の生地に朝顔が咲いている。 「どうこれ?素敵だと思わない?」 ハンガーごとかえではそれを取り、胸の前にかざしてレニによく見えるように袖を広げた。 「うん……きれい……」 他に言葉が思いあたらず、ありきたりだなと思いながらもそうつぶやいてレニは浴衣を見つめた。 帝劇に来るまではドイツで生まれヨーロッパで過ごしていたレニにとって浴衣はなじみのないものだったし全く興味もなかったものだったが、初めて大神と二人で縁日に行った時にかえでが着せてくれてからはたびたび皆と一緒に着たりすることもある。 あの日以来、レ二の中で浴衣は特別なものになった。 「ふふっ、気に入ってくれたみたいね、よかったわ。それにやっぱり……あなたにぴったりね」 ぼうっと浴衣に見とれているレニに笑って浴衣を当てながら、心配していたことへの安堵にかえではほっと息をつく。 「え?」 胸に当てられた浴衣とかえでの言葉に、それはどういう意味なのかと戸惑いながらレニがかえでを見る。 「レニ、あなた今日の花火大会にいつもの浴衣を着ていくつもりでしょう?」 「え、うん」 いつもの浴衣とは、一番最初にかえでが用意しておいてくれた物だ。 皆は毎回のように新しい浴衣を買っていたがレニは一着あれば十分と思ったていたし、なによりあの浴衣が気に入っていたので機会があればいつもあれを着ていた。 「だと思ったわ。だからこれを用意しておいたの。今日はこれを着ていくといいわ」 あっさりと返事をしたレニにかえでは苦笑して浴衣を手渡す。 「え、でも……ボク、あの浴衣気に入ってるし……それに、こんな高価な物、もらえない……」 いきなりそんなことを言われて困惑してレニが手元を彷徨わす。 「……そうね、無理にそれを着ていくことはないけど。でもこの浴衣はあなたのために作ったのよ。だからもらって欲しいの」 「つ、作った?」 思いがけない言葉をかえでの口から聞いて、レニは驚いて顔を上げた。 「そうよ。実はこれ、私が縫ったの。あなたに似合いそうな布を見つけたからちょうどいいと思って」 なんとなく言えなかったことをレニの驚きに連れられてかえでは告げた。 「……なんで、ボクに縫ってくれたの?」 買ったものかと見違えるほどの出来栄えの浴衣を見ながらレニは不思議そうに問う。 「うーんなんでかしら。あえて言うならあなたに縫ってあげたかったからよ。だからこれは私のエゴだから無理に着ることはないわ」 「うんん。ボク、これを着る」 前の自分なら、誰かに何かをしてあげたいとか側にいたいとかそんな気持ちは全然分からなかったけれど、今は深く問はなくてもなんとなく感じられるようになって、かえでの自分に対するそんな情を素直に受け取る。 「本当?嬉しいわ。それじゃさっそく着て見せて」 本当に嬉しそうに笑うかえでを見て、自分も嬉しくなりながらレニは服を脱ぎ始めた。 「あら、本当によく似合うわね。サイズもぴったりだし……」 浴衣を身にまとったレ二に想像以上に彼女の白い肌と淡い空色が溶け合っていてかえでは楽しそうに整えて行く。 かがんで帯を操るかえでを見て、花火を見に行くと決まってからそんなに日はなかったし暇などあるようには思えなかったのにいつのまにこんな事を勧めていたのだろうと、まるで普段と変わらなかったかえでを思い出しながら彼女への特別な情を瞳に映す。 もしも、誰にでも生まれて一番最初に与えられる無限の愛を自分にも渡してくれる人がいたならば、きっとこんな感じなのではないかとレニは思った。 今、とても幸せなのだから自分にそんな存在がいなかったことに対しても卑屈になることはないのだが、初めから無慈悲に愛されていた人たちの豊かさを目の当たりにしてどうしようもなく自分がちっぽけに見えてしまうときがある。 「さ、できたわよ」 立ち上がったかえでに促されて鏡に後姿を映すと、帯が可愛らしい蝶のように結ばれていた。 「レニ。あなたきれいだわ。ここに来てから……本当にきれいになったわね……」 肩に両手を添えて一緒に鏡の前に立つかえでに、縋ってみたいとレニは思った。 多分もうずっと前から、いつも自分のことを気にかけてくれていたかえでに未だ見ぬ人の愛を重ねていたのだ。 甘えてみてもいいだろうか。今まで知ることのできなかったものを、この人に与えてもらうことは許されることだろうか。 「……ありがとう、かえでさん。ボク、すごく、嬉しい」 抱きついてみたり、胸に顔をうずめてみたり、そういったことはできなかったけれど。 ずっと憧れていたぬくもりで心を満たして、鏡の中の女性にレニはそっと微笑んだ。 花火はのんびりと屋形船で見ることになっているのでそれまでの時間で屋台を見ておこうと皆思い思いの場所に散っていった。 大神も最初は皆に付き合っていろいろと見て回っていたのだがどうにもこういった人ごみの中にいるのがあまり得意ではないために、少し人が途切れている場所を見つけてそこでのんびりとラムネを飲んで一服していた。 「あら大神くん。屋台はもう飽きた?」 同じように休める場所を探していたのだろうかえでがちょうどいい場所を見つけて大神の隣にもたれかかる。 「いえ、そういうわけではないのですが、どうも人ごみは苦手で……」 「うふふ。私もさっきから足を踏まれっぱなしで疲れたわ」 頬をかく大神にかえでが笑う。 「でもみんな楽しそうで、来てよかったですね」 「そうね。米田さんなんかみんなに引っ張りまわされてへろへろだったけど」 「あはは」 どちらからともなく黙って祭りの喧騒や人の笑い声を聞いていると、足の疲れも心地よいものになってくる。 「そうだ、レニの浴衣、どう思う?あの子見るたびにきれいになっていくと思わない?」 「え、そ、それは……」 いきなりなかえでのちょっと意地悪な質問に、大神は赤くなって少し後ず去る。 「ふふっ、あなたってほんとにこういうことに疎いわね。おもしろいわ」 「か、からかわないでください!」 この人はいつもこうだと大神は照れ隠しに声を荒げる。 「あはははは。……でもね、ほんとにあの子はきれいになったわ。まるで年頃の女の子と何のかわりもない」 「……かえでさん?」 今まで楽しそうに笑っていたかえでが急に少しの憂いを帯びたような気がして大神は彼女の横顔を見つめた。 「……私はね、あの子をちゃんとした子供にしてあげたかったの。ふふ、ちゃんとした子供ってなにかしらね。でもあの子を助けに行ったとき、あの子の手は、血で真っ赤だった。何も映さない瞳で、目の前に倒れている人を見つめていたわ」 今ならその訳を語ってもいいだろうかと、長年積もらせてきた想いをかえでは言葉にした。 「普通に育っていれば、きっとご両親の愛に包まれて育ったはずの子が人を殺すことしか教えられなくて、あの子はすでに『子供』でも『人間』ですらもなく、ただの『機械』となっていたの。だからせめて、私はあの子を人間にしたかった。あの子の笑顔を、取り戻してあげたかったの……」 ふとかえでの目がどこかを見つめて大神もつられて視線をやると、ちょうど見える位置にレニが、紅蘭と織姫と一緒に金魚をすくっていた。 「だけど私には無理だった。なにをやってもあの子は心を開いてくれなくて。それが、今はあんな風に笑っているなんて……」 紅蘭がなにやら発明品を持ち出して金魚をすくおうとしているのに織姫が文句を言っているのを見て楽しそうに笑っているレニがいる。 「……いつのまに、あんなに大きくなっちゃったのかしら」 その笑顔をかえではずっと探していたはずなのに、手の中に、出会った頃の心も体も傷だらけのほんの小さな子供を捜していた。 「かえでさん……」 「ふふ、いやね、しんみりしちゃった。それでも懲りずにあの子に何かしてあげたくて、あの浴衣、私が縫ったのよ。ちょっと強引に着せちゃったわ」 もうすでに自分より多く、レニの心の大半を満たしているのだろう大神に少し羨ましく思った自分にあきれて笑う。 「……さっきロビーでみんなが来るまで二人でいた時に」 心にしまっていたレ二の言葉を思い出して、レニの中には自分と出会うずっと前から、きっと彼女自身気づかなかった安らげる場所があったのだと大神は思った。 「あの浴衣、ボクのお母さんが作ってくれたんだ、って、嬉しそうに言ってましたよ」 目の前の女性がいてくれたから、レニはこうやって楽しそうに笑っていられるのだろう。 「……あ、あらいやだ。私まだそんな年じゃないわよ」 大神の言葉に託されたレ二の情にかえでは驚いた顔をして、すぐにはぐらかそうと笑ったけれど積もった熱い想いが溢れそうになった。 ちょうど目の前のちょうちんに虫が寄って来ているのが見えて、大神はなぜかそれに興味を示していた。 「かえでさんに隊長。休憩?」 二人で並んでいると、うまく人ごみをすり抜けてレニがやって来た。 「ええ、大神くんとね、レニがきれいねって話をしてたのよ。気を付けておかないと、危ないわよ」 「なっ、かえでさんっ!!」 「え……」 もういつものかえでに戻って、真っ赤になる二人を見て楽しんでいる。 「うふふっ、そろそろ行きましょうか。みんなを呼んでくるからここで待っててね」 「あ、ちょ……っ」 戸惑う二人を置いて、かえではさっさと皆のところへ行ってしまった。 「……まったく、あの人は」 もうどこかへ消えてしまったかえでに、大神は脱力してため息をつく。 「……この浴衣、かえでさんが、作ってくれたんだ」 どこか人ごみの中のかえでを目で追いながら、ぽつりとレニがつぶやいた。 「かえでさんて……お母さんみたいだなって、思ったんだ。本で読んだり、みんなの話を聞いていたら、こんな感じなんじゃないかと思って」 「レニ……」 とても大切に浴衣を着ているレ二を大神は見つめた。 「かえでさんはどうか分からないけど……でも、なんだか嬉しいんだ。みんなが話しているのを聞いていたら、やっぱりちょっと寂しくて。でも、かえでさんはいつも、ボクにいろんな事をしてくれて。この浴衣だって、縫う時間なんてあるようには思えなかったのに、いつのまにか作っていてくれて」 レニは浴衣の中に、ずっと憧れていたものを感じていた。 「これは、ボクの浴衣。ボクのために作ってくれた……お母さんが。そう思っても、いいかな?」 少し恥ずかしそうに首をかしげて笑ったレニに、大神はただ優しく笑って彼女の柔らかい髪をくしゃりと撫でた。 その微笑にレニは嬉しそうに頬を染めた。 「ボク、みんなに会えて、本当によかった。こんなにもあったかいものがあるなんて、知ることもなく死んだかもしれないと思うと、怖い」 昔の自分なら、人の想いがどんなものか知る由もなかった。 家族の想いも、友達の想いも、恋人の想いも、どれも暖かくて、幸せで。 よくあんな暗闇の中で生きていたものだと、今思うと恐ろしい。もう二度と、あんな寂しいところには帰りたくない。 「レニ」 幸せを噛み締めているレ二の腕を引いて、そっと、大神は抱きしめた。 今の彼女を作っているのは自分だと、どこかでうぬぼれていたのかもしれない。 レ二の中には、どれほど自分が大切なものになろうとも、決して入れない場所がある。 それは自分の知らない、ほんの小さな傷だらけの子供と、優しい慈悲の手を持った女性だけの。 大神はこの小さなぬくもりを守ってくれたことに感謝をし、そして少しだけ、羨ましく思った。 「レニ、大神くん。行きましょ」 二人がそっと離れた時、ちょうどかえでが人の中から声をかけてきた。どこか懐かしくて優しい、母の情を感じさせる笑顔で。 「じゃあ、行こうか、レニ」 「うん」 皆と合流するまでの、ほんの少しの間、二人は手をつなで歩いた。 それぞれの想いを抱いて眺めた花火は、とってもきれいで、そして少しだけ、切なかった。 夏の終わりの、ほんの小さな、物語──。
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