聞こえてきた時計の音に、マリアは顔を上げた。聞こえてくる音は、規則的に5回鳴ると、再び部屋に静寂が訪れる。 「5時・・・そろそろ、夕飯の仕度をしないと」 読んでいた本にしおりをはさみ、マリアはサマースーツの上着を脱いだ。クローゼットから、エプロンを取り出す。先日、ファンの方からいただいたものだ。 マリアは雑誌のインタビューなどで、何度か「料理が趣味だ」と答えている。そのコメントを見たファンから、料理の関するいろいろなプレゼントをもらう。今回もらったのは、黒いシックなエプロン。胸の部分、猫のシルエットが象られているだけのシンプルなもので、あまり飾らないマリアにはよく似合う。 「今日は・・・レニが一緒ね」 机から手帳を取り出し、ぱらぱらとページをめくる。そこに書いてあるのは、夕飯係のスケジュール。 それは、帝都が平和になり、舞台が一段落した頃、突然かえでが提案してきたことだった。 「みんな、いつお嫁さんになってもいいように、花嫁修業の真似事でもしてみない?」 夕飯はいつも帝劇の食堂の専属コックが用意してくれたり、マリアやさくらなど、料理の得意なものが用意していたのだが、やはり役者といえど女性。家事はこなせた方がよいということで、一ヶ月間だけ、夕飯を当番製にしてみたのだ。 最初はみんな嫌がっていた(特に、織姫辺り)のだが、毎日変わった食事風景が続いておもしろくなってきたらしい。用事の入った日は相談して交換してもらったり、前々から何を作ろうかと相談しているペアなど様々で、皆それぞれに楽しんでいるらしい。 本日の当番はマリアとレニ。昨日の夜、レニが部屋に尋ねてきて、何を作るかはもう相談してある。 「マリアが当番なら、ボルシチ食べたいんだけどね」 と言いながら笑っていたレニを思い出す。以前、さくらとレニに手伝ってもらったことがあるのだが、夕食でボルシチを口にしたレニが「やっぱりマリアの作ったボルシチはおいしい」と、嬉しそうに笑ってくれた。自分の作るボルシチを、レニは気に入ってくれているらしい。 今日の夕飯のメニューはエビフライとお味噌汁。これは、アイリスからのリクエストなのだそうだ。何でも、浅草で食べたエビフライ定食がとてもおいしかったとかで、現在アイリスはエビフライが好物になっているらしい。 海老は、ちょうどでかけているカンナが帰りがけに買ってきてくれることになっている。もうそろそろ帰ってくるころだろうか。レニを誘って、厨房へ・・・ トントン! そこに、タイミングよく誰かが訪ねてきた。最も、ノックの仕方で誰かはわかる。 少々力が込められたノック音に、マリアが苦笑しながらドアを開けると、にかっと笑ったカンナの顔。 「おう、ただいま」 「おかえりなさい」 「海老、厨房にいたレニに預けてきたぜ」 「え、もういるの?」 「ああ。下ごしらえの準備してるぜ。マリアも早く行ってやれよ。あたいは、一風呂浴びてくるから」 「ええ。ありがとう、カンナ」 「夕飯、楽しみにしてるぜー!」 ひらひらと手を振って階段を下りていくカンナを見送って、マリアはエプロンを手にして厨房へ急ぐ。厨房に入ると、そこには、エプロンをして必要な材料をそろえているレニがいた。 「レニ!」 「あ、マリア」 「ごめんなさい、遅くなってしまって」 「ううん、ボクが早く来てしまっただけ」 にこ、と笑うレニは、夏用のシャツに緑のチェックのズボンという普段の服の上から、青いエプロンを身につけている。 夕飯を当番製にしてから、エプロンを持っていないという隊員に、かえでがわざわざ用意してくれたのだ。織姫は薔薇の刺繍の入ったローズピンク、紅蘭には、胸元に可愛らしいトマトのアップリケのついた緑のエプロンというように、それぞれにあわせて用意してくれたらしい。もちろん、費用はかえで持ちだ。 レニに用意されたのは、普通後ろでしばる紐は腰の部分をぐるりと一周させるタイプのもので、まん中に大きなポケットが一つだけのシンプルなもの。着飾らない、機能性を重視するレニのために選ばれたものだ。 「エプロン、使い慣れてきた?」 「うん。付け心地にも慣れて来た」 「そう」 にこ、と笑いながら、手馴れた手つきでエプロンをつける。そんなマリアをじっと見つめてから、レニは小首をかしげて口を開いた。 「マリアの・・・いつもと違うね」 「ああ、エプロン?お客様がね、くださったの。ほら、お料理が好きだって、よく雑誌でコメントしてるから」 「ああ、そうか。似合うね」 「ありがとう」 レニは、必要以上に言葉を飾ろうとしない。必要最低限の、けれど彼女にとっては最大級の褒め言葉をもらって、マリアも上機嫌だ。 「じゃあ、始めましょうか」 「了解」 手を洗って、食材と道具を確認する。ほとんどはレニがそろえていてくれたので、さほど時間はかからなかった。 「じゃあ、私がご飯とエビフライをやるから、レニはセンキャベツを作ってから、お味噌汁頼める?」 「了解。具は、どうするの?」 「そうね・・・何がいいかしら」 材料を探しながら、味噌汁の具を考える。 「昨日の夜は、さくらが豆腐とわかめのお味噌汁を作ってくれたよね」 「その前は、カンナが薩摩汁、作ってくれたわね」 「お味噌汁って、いろんな種類があるんだね」 「種類というか・・・家庭料理だから、人それぞれ違うのよ。具も味もね。だから、『おふくろの味』って言うんじゃないかしら。ボルシチもそうよ。人によって全然味も中身も違うもの」 「へぇ」 他愛もない話をしながら、食材を探す。いろいろあるのだが、それだけにどれにしようか迷ってしまう。 「あ」 レニが何かを見つけたらしい。マリアが顔を上げると、レニの手にはジャガイモ。 「ジャガイモ、発見」 「そういえば、最近ジャガイモのお味噌汁、食べてないわね」 「じゃあ、これにする?」 「そうね、あとは・・・玉ねぎと、油揚げでいいかしら」 「いいんじゃない?」 「じゃあ、決定ね」 材料をそろえて、調理開始。 マリアが研いでおいた米の入っている釜に火を入れて海老の皮を剥いている間に、レニはまず鍋に水を入れてお湯を沸かし、センキャベツに挑戦する。まだまだリズムは悪いが、随分上達しているのに気付いて、マリアは軽く目を見張った。 「随分うまくなったわね」 「そう?他のみんなが当番の時、手が空いてたら手伝うようにしてるんだ。早く、うまくなりたいから」 「料理、好き?」 「ん・・・そうだね。好き、かな。みんながおいしいって笑ってくれると、とても嬉しいから」 初めは、やったことがないからと遠慮していたレニだったが、簡単なことから手伝い始めて、少しずつ料理が楽しくなってきたらしい。少しずつスムーズに手が動くようになり、食べた人が喜んでくれたりすると、あっという間に料理を好きになれる。どうやらレニも、そんな料理の楽しさにハマってしまっているらしい。 もともと料理好きなマリアは嬉しそうに笑いながら、最後の海老の皮を向き終えた。帝劇メンバーは大人数なので、これだけでもなかなか大変な作業だ。 「あ、レニ。人参も千切りにしてくれる?」 「え?なんで?」 「センキャベツに混ぜるとね、色合いがいいのよ」 「うん、わかった」 人参を取り出し、皮を剥いて千切りにする。水にさらしてあるセンキャベツに混ぜると、レニがなるほど、と呟いた。 「綺麗だね」 「でしょ?あとは・・・玉ねぎと、ジャガイモと、油揚げね」 「了解」 レニが玉ねぎの皮を剥き始めると、マリアは鍋に油を入れ、火にかける。油が温まるまでにタルタルソースを作ろうと、ピクルスとパセリ、そしてマヨネーズを取り出した。 「レニ、玉ねぎ少しもらうわね」 「うん」 鰹節で出汁をとっているレニに断り、玉ねぎを2分の1ほどいただく。玉ねぎとピクルス、パセリをみじん切りにして、マヨネーズと混ぜれば、お手製タルタルソースの出来上がりた。それを別の器に盛り、沸騰してきたご飯の釜を見て弱火にする。 「そろそろいいかしら?」 試しにパン粉を落としてみて温度を確認した後、衣をつけて海老を揚げ始める。じゅわっという音と、レニが玉ねぎを切る包丁の音が重なる。 レニが、洗ったジャガイモを手にして、皮を剥き始める。ジャガイモは表面がでこぼこしているため、大根や林檎とは違い、少々皮を剥くのが難しい。レニの顔が真剣だ。 あんな顔を、舞台や戦闘以外で見るなんてと、マリアは少し驚いた。けれど、真剣に何かに打ち込めるのはいいことだ。一生懸命ジャガイモの皮を剥くレニが可愛らしくて、マリアは小さく笑った。 一回目のエビフライができあがった。用意した皿に油をとるための紙をしき、一個ずつ油を切ってから乗せていく。尻尾が鮮やかな赤に染まり、おいしそうに出来上がった。マリアが満足そうに笑う。 レニを見ると、まだジャガイモで苦戦しているようだ。肩に力が入ってしまっているのがわかる。 ふと、マリアの中にいたずら心が芽生える。くすっと笑ってから、レニに声をかけた。 「何?」 顔を上げるレニの前で、できたてのエビフライを一つ掴むと、ふーふー、と冷ましてから、徐にレニの口元に持っていく。 「あーん」 「えっ・・・?」 突然のことで、包丁を手にしたまま固まるレニ。マリアは、そんなレニの反応に小さくくすくす笑いながら、 「味見してくれない?」 「あ、味見?」 「そう。はい、あーん」 「・・・あーん」 顔を赤くさせながらおずおずと口を開く。さくっという音をさせて、レニが一口エビフライをかじる。 「どう?」 できたてあつあつのエビフライを、はふはふ言いながら食べているレニに、マリアが尋ねる。レニは、エビフライを飲み込んで一息つくと、照れくさそうに笑いながら言った。 「うん・・・おいしい」 「そう、よかった」 残りのエビフライを、自分で味見してみる。新鮮な海老のぷりぷりした歯ごたえに、さくさくした衣。出来は上々だ。 「ジャガイモ、大丈夫そう?」 「・・・がんばる」 「下手に力を入れると手を切るから、リラックスしてね」 「う、うん」 少しだけドギマギしているように見えるレニだが、先ほどのいらない力は抜けたらしい。若干まごつきながらも、さくさくと作業を進めていく。 マリアは時計を見ながらエビフライを揚げ、時間になったらご飯の釜の火を止める。ご飯はこのまま置いておけばいい。 切った材料を鍋にいれ、レニは盛り付けの準備をする。センキャベツの水を切り、紅蘭が作った甘くておいしいトマトも添えて、皿に盛り付けていく。あとは、エビフライが乗れば完成。 材料が煮あがったのを確認してから、火を止めて味噌を入れる。さくらに教わった、あわせ味噌。自分で味見をしながら微調整して、一つ頷くとお手塩に味噌汁をよそう。 「マリア」 「なぁに?」 「味見、お願いしていいかな?」 レニがお手塩を差し出す。マリアはにこっと笑ってお手塩を受け取ると、一度ふーふーと冷ましてから口をつける。 「どうかな?」 「うん、いい味。出汁もしっかり取れてるし・・・これだけできれば上等よ」 「ほんと?」 「ええ。ほんとに料理が上手くなったわね、レニ」 「ありがとう」 嬉しそうに笑うレニにお手塩を返しながら、マリアも嬉しそうに笑う。 「これ、もう盛り付けていい?」 「ええ。お願いね」 「了解」 出来上がったエビフライを盛り付けていく。4皿程に分けて盛り付けるも、なんだかまだ余りそうな気配だ。 「随分多いね」 「カンナに買出しを頼んだのが間違いだったかしら・・・」 さすがのマリアも、少し不安になってきた。まあ、カンナのことだから、これくらいはぺろりと食べてくれるのだろう。いざとなれば、カンナとタメを張れる大神にも頑張って貰えばいい。 「じゃあ、残りはお代わり用に取っておきましょうか。出来たものを、食堂に・・・」 「おっなかすいたー!」 「マリアさん、レニ、お手伝いにきました」 「何か、手伝うことあるですかー?」 「ウチも手伝うで!」 食堂に運ぼうとした時、厨房の入り口から、アイリス、さくら、織姫、そして紅蘭が顔を覗かせた。マリアとレニは顔を見合わせてくすっと笑うと、 「今、できたとこだよ」 「みんな、このお皿を1個すつ食堂に運んでちょうだい。その後、お味噌汁とご飯をよそっておくから、順番に運んでね」 『はーい!』 元気よく返事をして、「おいしそー!」「早く食べたいわね」などとおしゃべりしながら、1人ずつお皿を持っていく。 「じゃあ、レニ、味噌汁をよそってね。私は、ご飯をよそうから」 「了解」 それからしばらく、お茶碗とおわんのバケツリレーが続き、食卓に人数分のご飯とお味噌汁が行き渡る。そこに、カンナや大神たちも現れて、賑やかな食事タイムが始まる。 「それじゃあ、食べようか。せーのっ」 『いただきまーす!』 |